
2025.07.15 upload
上田ケンジ
「天才パンク少年60年の歩み ウエケン還暦フェス」インタビュー
ここまでやれるとは想像もしてなかったけど、60になってもやりたいことがいっぱいあるんだよね
―― 上田ケンジ
プロデューサーでありベーシストである上田ケンジ。DONUTの読者にとってはKENZI & THE TRIPS、the pillowsの元メンバーという印象が強いだろう。しかし上田ケンジの長いキャリアを考えると、それは一瞬の出来事であり、世間的(音楽業界的)には名プロデューサーとして名前が通っている。PEALOUT、GOING UNDER GROUND、爆弾ジョニー、Drop's、カーネーション、DEPAPEPE、THE JERRY LEE PHANTOM、堂本剛、長渕剛、鈴木亜美、小泉今日子、石橋凌、渡瀬マキ、加藤いづみ他多数のバンドやアーティストを手掛けている。ただプロデュースしただけではなく、上田ケンジはヒットという結果を残している。現在はプロデューサーやベーシストとして活躍しながら小泉今日子とのユニット、黒猫同盟のメンバーとして活動。アルバム制作、ライブ活動を行っている。さらに小泉今日子と高木完と共にシン・コイズミックスプロダクションズもスタートした。上田ケンジも今年で60歳。それを記念して「天才パンク少年60年の歩み ウエケン還暦フェス」と題して2025年8月30日にSpotify O-EASTにて還暦ライブを開催。黒猫同盟やシン・コイズミックスプロダクションズはもちろん、怒髪天、GOING UNDER GROUN、加藤いづみ、渡瀬マキなどが集結し、還暦をお祝いする。その還暦フェスを盛り上げるべく、彼の全キャリアを振り返るインタビューを行うことにした。駆け足ではあるけれど、読者にとっては、the pillows以降の上田ケンジの活躍を知る上で、いい機会になると思う。
●取材=森内淳
■ KENZIに「東京に一緒に行こう」と言われて。一週間後には東京に行きました
―― 上田さんの還暦イベント「天才パンク少年60年の歩み ウエケン還暦フェス」が2025年8月30日にSpotify O-EASTで行われます。そこで今回は上田さんの音楽人生を振り返りたいと思います。最初に音楽に出会ったのはいつですか?
ぼくが小学校4年生くらいのときに洋楽ブームというのがあって。ベイ・シティ・ローラーズ、クイーン、キッス、ランナウェイズとか、そのあたりで。それと同時に日本のフォークがブームになっていて、ぼくもフォークギターを小4の頃に始めたんだけど、5年生になったらロックに寄っていって、それでエレキギターに持ち替えるんです。6年生からベースに持ち替えて。
―― パンクロックにはいつ出会うんですか?
中1の終わりくらいかな。まずセックス・ピストルズを知るという。そこからアナーキーとかスタークラブとかモッズ、ARBを聴き始めましたね。パンクとの出会いで、一番早かったのはセックス・ピストルズでした。
―― ピストルズにはどうやって出会うんですか?
当時、卓球をやっていて、北海道のなかでも他校との交流もあったんです。そのなかで倶知安に卓球に強い中学があって。そこでBe Modernの連中が卓球をやっていたんですよ。たちばな(哲也)や八熊(慎一)、たぶん天坂(晃英)もやっていたんじゃないかな。彼らはすでに倶知安でパンクバンドをやっていたんですよ。当時、卓球交流があって、倶知安に行って2〜3日泊まらせてもらったときに、彼らの仲間の人に「お前、バンドやっているんだって? だったらこれを聴いてみれば?」と言って「PISTOLS」って書いたのを渡されて。親に怒られるから「SEX」という文字の上に黒い紙が貼ってあってね(笑)。そこで初めてピストルズの音楽を聴いて「おおっ!」と思って、そこからパンクにハマりました。それまでは洋楽ブームからレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルみたいな感じで聴いていて。
―― パンク以前のロックの王道はハードロックでしたからね。
こないだも高木完さんとそういう話をしていて。これは、当時、近所で買った『レッド・ツェッペリンⅢ』なんだけど「結成10周年」ってオビに書いてあるんですよ。
―― ツェッペリンの結成が1968年でデビューが1969年なので、その10年後は1978年か1979年。セックス・ピストルズのファーストが日本で出たのが1977年だから、1年か2年くらい遅れてパンクを聴き始めたんですね。ベースもパンク一辺倒になるんですか?
当時はロカビリーも流行っていて、まわりでベースをやっている奴なんかいなかったから、ロカビリーのバンドに手伝いに行ったりしたかな。あと、ハードロックのバンドに手伝いに行ったり。中学のときに最初に入ったバンドもロカビリーのコピーバンドで、クールスとかキャロルとかやっていた。あとビートルズなんかもやっていたかな。それで中学を卒業したときにちゃんとバンドをやろうと思って、初めてつくったバンドがトリオで、ニューウェーブっぽいパンクをやって。そこではもうオリジナル曲をやっていましたね。ちょっと暗めのロキシー・ミュージックみたいな。あと、ウルトラヴォックスのダサいバージョン(笑)。突き抜けたところがなくてちょっと内にこもった感じでやっていましたね。ただ、聴いている音楽はパンク一辺倒ではなかったかな。ディスコから大貫妙子さんまで聴いていました。シュガー・ベイブとかね。クラシックも聴いていたかな。
―― パンク一辺倒にはならなかったんですね。もしかしたらその頃からプロデューサー資質があったのかもしれませんね。
まだ意識はしていないけど、あったのかもしれないですね。
―― 上田さんはその後、東京に出て、KENZI&THE TRIPSで活躍するんですが、KENZIさんとの出会いもその頃なんですか?
高校のときにロカビリーのバンドを手伝っていて、そのときに一学年上に八田(ケンヂ/KENZI)くんいて、そのバンドを見ていたんですよ。その2年後くらいに、八田くんが東京に出るからっていうんで、佐野(俊樹)くんと俺が誘われたんだよね。八田くんと佐野ちゃんとは演奏したことがあるんだけど、八田くん俺とは一回も演奏を一緒にやったことないのに「東京に一緒に行こう」と言われて。一週間後には東京に行ったんだけど(笑)。
―― 思い切った決断でしたね。
八田くんは札幌でも目立っていましたからね。高校時代にスマ・ロ子(SMILE-LOCOMOTION)というバンドをやっていて、すごく有名だったから。あのとき北海道で一緒にやるとしたら八田くん以外にいなかった。八田くんはスマ・ロ子とKENZIの間に「イギリス」というバンドをちょっとだけやっていて。そのときはカセットしか出してなかったんだけど、そのバンドもすごくかっこよかったからね。「八田くんはすごいんだなあ」と思っていましたね。だから八田くんがイギリスをやめて、東京に出て勝負をしたいと言ってきたときには「行くしかないだろうなあ」と思ったんですよね。
―― 3人で上京するんですね?
ドラムは東京で探そう、ということになって。それで、スタークラブが初の新宿ロフト2デイズをやるというんで、それをどうしても見たかったから、そのライブに合わせて上京しました(笑)。1984年の3月の末くらいだったかなあ。だけど、その頃も、普通に荒井由実とか聴いていたし、YMO関係も聴いていましたね。
―― そうなんですね。
ムーンライダーズとかね。沢田研二さんの『MIS CAST』(1982年)というアルバムがあるんだけど、全曲、井上陽水さんの曲で、編曲をムーンライダーズの白井良明さんがやっていて。「白井良明って何者なんだ?」って思って、当時、インターネットがないので雑誌とか本で調べたら、ムーンライダーズの人で20代だということがわかって。「すごいな」と思って。そのあとも、事あるごとにいろんな雑誌に白井良明さんの名前が出てくるから「いつかこの人と仕事をやってみたいな」とずっと思っていて、後々、白井良明さんとは仕事をすることになるんですけどね。
―― TRIPSをやっているときもそうやっていろんなところにアンテナを張っていたんですね。
最初、KENZIが世に出たときに、ポップだと解釈されたんだけど、それはぼくの編曲のせいだと思うんですよ。最初に出たアルバム『BRAVO JOHNNYは今夜もHAPPY END』(1986年)にはピアノやラッパも入っているし、「BRAVO JOHNNY〜」のイントロも、歌が入ったときのリフとは違うリフにしていたりして、音楽的な整合性を保っているんですよね。東京に出てまず何をやったかというとピアノ教室に通ったんですよ。「東京に来たからには音楽で食っていこう」と思っていたので。
―― その頃から立ち回りはプロデューサーだったんですね。
意識はしていないけど、多分、そういうことだったんだと思いますね。全部の曲のだいたいのアレンジは考えていたし。八田くんが曲を作って持ってきて、過剰アレンジっぽい気もしていたけど「思いつくことは全部やってみよう」という感じでやっていました。八田くんはそれを受け入れてくれていましたよね。
―― ということは、TRIPSからピロウズの流れには音楽的な落差があるように感じますけど、上田さん的にはそうでもなかったんですね。
全くなかったですね。「イギリスから生まれた音楽のオマージュをやりたい」という点では一緒だったし。ピロウズのバンド名はチェリー・レッドのコンピレーションアルバム『ピロウズ・アンド・プレイヤーズ』(1982年)からとっていて、当時は「チェリー・レッドのバンドのような音楽がやりたいな」とも思ってもいましたからね。ちょうどストーン・ローゼズも出てきた頃で「ああいう音楽的アプローチをやりたいな」とかね。あとはスミスとか。それは自然な流れだったような気がしますね。山中(さわお)は当時からどんどん曲を作ってくる人で、全部の曲がよかったから、それを全部やりたいと思っていたし。山中が高校時代から作ってきた曲は、コインロッカー・ベイビーズ時代も含め、だいたい全部聴いていましたからね。山中がこうしたいっていうところに近づけるように頑張ったんですけど、山中は自分でなんでもできるから、あるとき「ベースが書いた歌詞を歌う必要があるのか?」という疑問にぶつかって、それを相談されたんですよ。それで、1年間、曲には携わらないでベースだけに専念して頑張ってみたんだけど、今度は自分のなかで疑問がわいていきて……。ピロウズをやめた大きな理由はそこにあったと思いますね。あと、当時は団体行動に疲れていましたね。『BRAVO JOHNNY〜』が事実上のデビューみたいなもので、そこからワーっとバンドでやって、25、6歳になったときに「もしかしたら裏方が性に合っているのかもしれない」と徐々に思い始めるようになって。「ちゃんと裏方で勝負してみよう」みたいな。
the pillows/MOON GOLD(1991年)
■ レーベル運営のノウハウはGOING UNDER GROUNDで学びました
―― ピロウズをやめたときにはビジョンはあったんですか?
ピロウズをやめた瞬間にいろんな人から「ツアーでベースを弾いてくれ」と頼まれたんですよ。毎日のようにしっかり仕事があるし、いろんなレコーディングにも参加して。そうやって2年間やってみたんだけど、自分がやろうと思っていた「発信元になる」というのをやれていなくて。「新しいサウンドを作れるプロデューサーがここにいるんだよ」とか「ぼくはこういう曲を作れるんだよ」といった発信が全くできていなかったんですよね。ぼーっとしていると、2年先、3年先のツアーのスケジュールが決まっていくんですよ。売れているミュージシャンのサポートを中心にやっていたから。あるとき、それを全部お断りしたんです。
―― そこがプロデューサーへの第一歩となるんですね。
曲だけを作っていた時期があって、最初に渡瀬マキちゃんが歌う曲をプロデュースして。そこからは数珠つなぎで、加藤いづみさんをやって、バンドではカーネーションもやって。それが30歳くらいのときかな。
―― そのなかでも印象に残っている仕事はなんですか?
GOING UNDER GROUNDのアルバムをプロデュースしたことがあるんですけど、当時はまだ松本素生が高校に通っていた頃だったんですけど、最初、メジャーレコード会社のインディーレーベルから出すっていうから協力していたんだけど、プロジェクトがボロボロで駄目になって。それでも「彼らを世の中に出してあげたいな」ということで、ぼくが出資して山中湖でレコーディングをしたんです。UK PROJECTにお願いして流通をやってもらって。それをやることでレーベルの基本の構造がわかりましたね。それまでもそういうことをやってはいたんだけど、しっかり自分でお金を出すというようなことはなかったんですよね。事務所に協力してもらって、事務所のスタジオで録音して、事務所に原盤を預けて、流通をかけて、ぼくは1円も出してない。それじゃレーベルをやっているとは言えないな、と。全部のことを自分でやって、お金も出して、損をするんだったら、損をしてみないと、体感的にわからないというか。
―― 上田さんは当時からレーベルをやりたかった?
やりたかった。やりたかったけど、当時、流行っていたレーベルは渋谷系のようなレーベルで、おしゃれなのは嫌だったんですよ。かといって、レーベルがすごいカラーを持つようなものも嫌だった。
―― そういうレーベルはわかりやすさもありますが音楽性がひとつだけになりますからね。
そうそう。本来レーベルってそういうものじゃないじゃないですか。いろんなタイプのミュージシャンがいていいわけだし。イギリスの4ADみたいなレーベルが一番の理想かな。
―― GOINGでの体験が現在の上田さんの会社、Kamuy Record(カムイレコード)につながっていくんですね。
母体になってはいないけど、ノウハウはそこで学習しましたね。「決して損をしちゃいけない」ということもわかりました。一緒にやる人と考えながら、慎重に物事を進めるということを学びましたね。イチかバチかはやらない、という。
―― うちも出版社の真似事をやっていますが、慎重になりますよね。
今、うちのレーベルが上手くいっているのはスタジオがあるからだと思うんですよ。ドラム以外はうちのスタジオでできちゃうから。あとレコーディングのときのミックスもぼくができるようになって、録りも落としもできるからなんとかなっているんです。そこを外注するとめちゃくちゃお金がかかるんですよ。スタジオ代とエンジニア代は一番お金がかかる。プロデューサーはぼくがやっているから、プロデューサー料もかからないし、売り上げた分をレーベルとミュージシャンで分ければいいわけだからね。そういうことをGOINGで学びました。メジャーから出たGOINGの初期のアルバムも、全部、ぼくがプロデュースしているんですよ。ただ、GOINGは今が一番いいかもしれない。
―― 今、頑張っていますよね。ここ最近、彼らはとてもいい作品を作っています。
こないだの「爆音ノ四半世紀ep」(2024年)も内容がすごくよくて。その前のアルバム(『あたらしいともだち』)もね、すごくよかったんだよね。
―― 『あたらしいともだち』(2022年)は名盤だと思います。
ビーチ・ボーイズみたいなことをやったりとかね。
GOING UNDER GROUND/ハートビート(2003年/プロデュース:上田ケンジ)
■(堂本)剛くんがGOINGを見て「プロデューサーは誰ですか?」と訊いたらしいんです
―― GOINGのあとは上田さんのレーベル構想はどうなるんですか?
そのあと、バンブルビーレコードといって、カーネーションの直枝(政広)さんと今、ディスクユニオンにいる金野(篤)くんっていう社員さんと豊田道倫と棚谷(祐一)さんとレーベルを作ったんです。その頃、棚谷さんは学校の先生をやっていて「生徒のバンドがすごくいいんだよね」「CDを出せるんだったら出したい」とずっと言っていて。それが空気公団だったんです。バンブルビーレコードから出して、いきなり8千枚も売れたんですよ。その頃、まだ会社として登録していなかったから、8千枚も売れると困るんですよ。誰かの収入になってしまうので。それで、経費以外、全部、空気公団に振り込んだら、驚いてました(笑)。バンブルビーレコードの経験から、レーベルをやるには会社にして、ちゃんと収支も報告して、その母体もきちんとしていないと駄目だっていうことを学ぶんです。
―― プロデュースの方はどういうふうに発展していくんですか?
プロデュースはTHE JERRY LEE PHANTOMとかPEALOUTをやっていました。女性のソロアーティストもかなりやりましたね。川村結花さんとか。それが2000年くらいなんだけど、あの頃は5年くらい休みがなくて、あまり覚えていないんですよね。
―― プロデュースの方向はどんどん変わっていったんですか?
最初は「Lo-Fiを広めたいな」と思ってやっていて。1992年くらいからその方向で始めていたんだけど、当時はドラムの音を歪ませるということに日本人が慣れていなくて、反発があったんですよね。それで挫折しそうになるんですけど、幸運なことに、BECKとか出てきて、時代が追いついてくるんですよ。そしたら、Lo-Fiのプロデューサーとしてたくさん仕事がくるようになって。とくに女性ソロボーカルはLo-Fiサウンドがハマるとチャートをドンと上がっていくんですよ。松崎ナオちゃんのシングルもすごく売れたんじゃないかなあ。そうやってやっていくんだけど、ある日、吉田拓郎さんのアルバムを聴いたときに、ドラムがLo-Fiサウンドになっていたんです。「ここまで浸透したか」と思って、Lo-Fiをやめることにしたんです。
―― そこからどうなるんですか?
そこからHi-Fiに移行するんですよ。個人的にはTHE JERRY LEE PHANTOMにはけっこう力を入れていて、そのときは4つ打ちのロックをやったんです。4つ打ちのロックを日本に持ってきたのはぼくと(小井出)永なんですよ。レディオ4や!!!(Chk Chk Chk)やザ・ラプチャーが流行る前だったんです。「This boring rock」(2001年)という4つ打ちの音楽を作ったんですけど、今度はそれが見事に流行りだして、みんな4つ打ちになったんです(笑)。そうなると当然のように「4つ打ちはやめよう」ということになって(笑)。そういうことをずっと繰り返していましたね。
―― 上田さんは堂本剛さんのプロデュースもやっていますよね。
実は2004年くらいに転機があったんです。BAZRAのインディーズ盤をプロデュースしていたんですけど、彼らがメジャーに行くときにレコード会社のプロデューサーかディレクターに「そんな三流プロデューサーとやっている場合じゃないよ」と言われたらしいんですよ。BAZRAはぼくとやりたいと言っていたんだけど、レコード会社はぼくを絶対にクビにすると言って。BAZRAは真面目だから「上田さんとやれないんだったら契約はやめる」と言い出したんだけど、「頼むから(そのレコード会社と)やってくれ」と言って。「ぼくは大丈夫だから」と言って。そこでぼくも考えて「チャートをちゃんととる音楽をプロデュースしよう」と思って、堂本剛くんをプロデュースするんですよ。
―― 堂本さんとはどういう経緯で知り合ったんですか?
剛くんがミュージックステーションに出たときにGOINGを見て、「このバンドのプロデューサーは誰ですか?」と訊いたらしいんです。普通は「このバンドと一緒に何かをやりたい」と言うと思うんですけどね。「斬新だな」と思って。で、調べていってぼくにたどり着いたという。そこから6〜7年、アルバムを5枚くらいやったのかな。当時、剛くんは日本のロックっぽいことをやりたかったんだけど、その間にどんどん音楽性が変わっていって、ファンクの世界に入っていったんですよ。ところが、ぼくがいくらファンクを弾いてもノリがブラックミュージックのようにはならないんですよね。だからKenKenを紹介して、交代していったという感じですかね。ただ、その辺りからCoccoをやったりとか、KinKi Kidsの歌詞を書いたりとか、鈴木亜美さんとか、DEPAPEPEのシングルもインストでは初めて3位をとったりとか……
―― メジャーなアーティストを手掛けていくんですね。
そうなんです。10年くらいオリコンの左ページの上(チャート上位)にいたら三流プロデューサーと言われないようになるかな、と思って(笑)。
―― はははははは。
7年くらいで言われなくなりましたけどね(笑)。そのタイミングでカムイレコードを作るんですよ。今年でもう15年目ですよ。あのとき「三流プロデューサー」と言ってもらって、ちょっと奮起して「売れている人をもっとしっかり売れるようにしよう」と思って。そう言われたら受け止めるしかないですよね(笑)。そこでいじけて「俺は三流でいいんだ」と思ったら終わっていたかも。だけど「酷いことを言うな」とは思いましたよ(笑)。
THE JERRY LEE PHANTOM/Life Rhythm Box(2000年/プロデュース:上田ケンジ)
■メジャーレーベルでのバンドキャリアでは黒猫同盟が一番長くなりました
―― そういえば、上田さんは長渕剛さんのプロデュースもやっていましたよね。
長渕さんがレコーディングをするときの発想力とか瞬発力や歌の説得力、ハーモニカとかギターの演奏は「上手い」というレベルを超えちゃっているんですよね。「すごい」としか言いようがないんです。大抵のミュージシャンはレコーディングのときに歌入れ日とか作るでしょ。そんなのないんですよね。ジャーンってやっているときに一緒にワーッて歌って、それでOKとか。オケを録っているときに「このオケで一回歌わせてよ」と言って歌って、それ以降、その曲に関しては一回も歌わないんですよ。「これでいい」って。そうなると歌のレベルを常に合わせておかないといけないんですよ。どれくらいの声量で、マイクからどれくらいの距離で歌うのかがわかっていないと、調整ができないんですよね。
―― 長渕さんとはどういうきっかけで知り合うんですか?
ぼくが石橋凌さんのプロデュースをやったときに、仕事の進め方が評判がよかったらしくて、その担当ディレクターが長渕さんをのちに担当することになったんです。それでアレンジコンペの話がきて、それで通ったのかな。長渕さんはぼくのアレンジに大興奮されていて。
―― そのときはどういうアレンジをしたんですか?
原曲をガラッと変えたんですよ。祭ばやしみたいな曲をゲイリー・ムーアのようなロックに変えて。それまで自分があえて避けてきた音楽性を全部揃えて、アレンジをしたら、それが通って。そうしたら、ライブも全部任せたいということになって。5年間くらいやったんじゃないかな。うちの会社でアルバムの制作とかライブのキャスティングもやっていたから。長渕さんがぼくに全部を任せてくれた感じだったんですよね。アルバムも何枚か作って、シングルも何枚もやって、その間、紅白歌合戦にも出て。ちょうど東日本大震災の前後で、ずっと東北に行っていたし。今では、何かそういう役目だったのかなあ、とも思っていますね。誰も手をつけていない大御所のプロデュースは輪番制でみんなまわってくるから、最初はそういう感じで始めたんだけど、やっぱりすごいなあというふうになりましたね。
―― 小泉今日子さんとはいつ頃から関わることになるんですか?
長渕さんと同じ時期に小泉さんが始まっているんですけど、ぼくが長渕さんから離れる頃、小泉さんもそんなに音楽活動をしなくなっていたんですよ。ぼくが50歳になったときに友だちとライブをするときに歌いに来てくれたりしていたんですけどね。
―― DONUTでは、上田さんは爆弾ジョニーやDrop'sのプロデューサーとして知られています。
爆弾とDrop'sがぼくの事務所の第1弾だったんです。その直前までゆずのツアーに帯同していて、楽屋で(爆弾ジョニーの)Zepp Tokyo(2014年)のライブがりょーめーの体調不良で中止になったときにはさすがに落ち込みましたね。
―― Drop'sは活動休止中で、爆弾ジョニーは残念ながら解散しました。
芸人さんがやっているラジオを聴いていると「唯一人」とか「おかしな2人」とかよくかかるんですよね。世代的に、今、30歳くらいの人たちは爆弾ジョニーの曲が刺さっているんじゃないかなあ。
―― そのあとが黒猫同盟ですよね。
コロナが始まったときに小泉さんから電話がかかってきて、「大人がエンターテインメントで楽しんでいるところを若い人たちに見せていかないと駄目だ」という話をして、黒猫同盟を作るんですけど、あそこからもう5年くらい経つんですよ。
―― もうそんなに経ちますか。
2020年に結成したんで。メジャーを母体にしてやっている活動のなかで一番長いんですよ。TRIPSには1年いなくて、ピロウズには3年しかいなかったから、黒猫同盟が一番長い。
―― 上田さんのバンドキャリアで一番長いのは黒猫同盟なわけですね。
メジャーレーベルを母体に活動するという意味ではそうですね。去年は高木完さんも入って、シン・コイズミックスプロダクションズが始まって。
―― シン・コイズミックスプロダクションズは高木さんと上田さんと小泉さんによるプロジェクトですよね。
もともと完さんが小泉さんには(アン・ルイスの曲)「恋のブギ・ウギ・トレイン」が合うんじゃないかといって持ってきて、「歌ってみたら?」という感じだったんですけど、「だったらユニットでやろうよ」「オケは誰が作ろうか?」みたいな話になって。それで2023年の忘年会で完さんに「一緒にやりませんか?」という話をして。その場に小泉さんもいたんだけど、じゃああらためて話をしましょうかって言って、シングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」(2024年)を作ったら、評判が良くて。シン・コイズミックスでは、小泉さんの元々の曲をちょっと変えてやったりとか、マッシュアップしたりとか……
―― そうやって考えると、可能性は無限に広がりますね。
評判がいいから、けっこうライブのお誘いも来てて。ついこないだも画家のエドツワキくんのペインティングとシン・コイズミックスを40分くらいと黒猫同盟を40分くらいのライブを渋谷のさくらホールということろでやったんです。いろんな人が見に来てくれて。
シン・コイズミックスプロダクションズ/恋のブギ・ウギ・トレイン(2024年)
■「BRAVO JOHNNY〜」を録音したのが18歳。ずいぶん経ちましたね
―― 2025年8月30日にSpotify O-EASTで「天才パンク少年60年の歩み ウエケン還暦フェス」が開催されます。
ちょうど2年くらい前に小泉さんが「還暦のイベントをやらなきゃね」と言っていて。「本当にやるのかなあ?」と思っていたら、小泉さんとぼくのマネージャーとで話を進めていました(笑)。当日は、女性アーティストのコーナー、パンクロックのコーナー、親友コーナーみたいな感じでやろうと思っています。親友コーナーには(杉本)恭一君とかとか(上原子)友康とかに出てもらって。それからGOINGも出てくれて、怒髪天も出てくれます。司会は小泉さんがやって。
―― 楽しいイベントになりそうですね。
だけど、音楽のジャンルが飛びすぎていて、どんなイベントになるのか、全く想像ができないんですよね。ぼくは、できるだけ演奏をしないで椅子に座って見ていたいんですけどね。シン・コイズミックスプロダクションズとか黒猫同盟では演奏するけど、やっぱり加藤(いづみ)さんの歌とか(渡瀬)マキちゃんとか(宍戸)留美ちゃんとか、一生懸命にベースを弾くんじゃなくて、横で見ながら聴いて、感涙にむせびたいという(笑)。
―― はははははは。
こんなことはもうないと思うからね。70歳のときにあるかどうかなんてわからないし、これだけアーティストが揃うこともないだろうし。実際、怒髪天だってもうシミ(清水泰次)はいないし、GOINGは(伊藤)洋一ちゃんもいないし。なかには亡くなったミュージシャンもいるわけだからね。だからこういうイベントができるうちに、自分が楽しみたい楽しみ方で楽しもうかな、と思っています。GOINGとかもじっと見ていたいなあ。一番近い位置で見ていたいから、ステージ上に赤い椅子でも用意してもらって(笑)。
―― 上田さん的には還暦を迎える感慨みたいなものはあるんですか?
とくにないんですけどね。だけど「BRAVO JOHNNY〜」を録音したのが18歳の頃だったから、ずいぶん経ったなあ、とは思う。42年とか経っていますからね。よくここまで飽きずにやってこられたなあ、と思うし、干されずにやれたなあ、という(笑)。ここまでやれるとは想像もしてなかったけど、不思議なもので、60になってもやりたいことがいっぱいあるんですよね。
―― じゃあこの先の展開も考えているんですね。
シン・コイズミックスプロダクションズも本格的にやりたいし、黒猫同盟はできるだけ長くやりたいなあ、とは思っているし。小泉さん自身の音楽を小泉さんがどうしていくのかはわからないけど、もしそこも必要と思って貰えれば、そうしたいし。あと、自分自身のソロもね、来年あたりやってみようかと思っている。なんか「このまま終われないなあ」という感じがしていて。ソロの形態も考えようとは思っていますね。
© 2025 DONUT
INFORMATION
「天才パンク少年60年の歩み ウエケン還暦フェス」
日時:2025年8月30日(土)OPEN/DJ START 16:00
会場:Spotify O-EAST
出演:上田ケンジ/
小泉今日子/
怒髪天/
GOING UNDER GROUND/
黒猫同盟(上田ケンジと小泉今日子)/
シン・コイズミックスプロダクションズ(小泉今日子 高木完 上田ケンジ)/
ANABA(杉本恭一×上田ケンジ)/
MOIL&POLOSSA(上原子友康&上田ケンジ)/
ほにゃららバンド(山内圭哉、三宅弘城、上原子友康、上田ケンジ)/
大森洋平×伊東ミキオ/
加藤いづみ/
渡瀬マキ/
宍戸留美/
小関純匡(Drums)/
akkin(Guitar)/
DJヒサシthe KID(THE BEACHES)/
山中さわお<順不同>
料金:8,800円(税込/オールスタンディング)
*入場整理番号付/1ドリンク代600円別/再入場可
プレイガイド先行(7月30日(水)23:59まで):
チケットぴあ:https://w.pia.jp/t/uekenfes2025/
イープラス:https://eplus.jp/uekenfes/
ローソンチケット:https://l-tike.com/uekenfes2025/(Lコード:71517)
*一般発売:8月2日(土)10:00~
主催 : ウエケン還暦フェス実行委員会
企画 : 明後日/カムイレコード
協力:SOGO TOKYO
お問い合わせ:SOGO TOKYO(03-3405-9999)





