2025.03.05 upload
馬渕太成『新光 -SHINKOU-』インタビュー
『新光 -SHINKOU-』をつくって、自分の立ち位置を見つめ直せたのはデカかった ―― 馬渕太成
2025年3月5日、SAのTAISEIが馬渕太成 名義でソロアルバム『新光 -SHINKOU-』をリリース。この作品は、パンクロックとは無縁の歌謡ロックに振り切った作品になった。今やパンクロック界のカリスマでありレジェンドとなったTAISEIは何を思い、この作品に向かったか? ライフワークでもあるSAは今後、どうなるのか? ミュージシャン生活40周年を迎えたTAISEI、いや、馬淵太成に、気になるところを洗いざらい訊いた。
●取材=森内淳
■ どこまで幅広い音楽をつくれるか試してみたかった
―― 2024年でデビュー40周年を迎えました。
40周年って気づいたのが、それこそ2024年なんだよ。「あ、俺、40年だ」って(笑)。ここまで来ると、バンドを続けるということが当たり前じゃなくなってきてるんだよね。例えば、ピロウズが解散したり、ミュージシャンが亡くなったりとかね。そういうこともあって、音楽をせっかくここまでやりつづけたんだったら、一個一個をちゃんと大事にやらないと駄目だなあと思ってね。惰性でやってちゃ駄目だなあと思うんだよね。
―― そんななか、2025年3月5日に馬渕太成名義でソロアルバム『新光 -SHINKOU-』をリリースします。ソロをつくるきっかけはなんだったんですか?
コロナ禍になる直前に、SAとして『CALL UP MY COMRADES』(2020年発表)アルバムを出したんだけど、その直後からコロナ禍になっちゃって、アルバムのプロモーションやライブができなくなったんだよ。バンドとして動けない時期にいろんなことを考えたときに、自分のコンポーザーとしての実力を知りたくなったんだよね。それこそ40年という時間のなかでいろんな音楽をつくってきたなかで、どこまで幅広く音楽をつくれるかということに挑戦したかったというかね。それがソロアルバムに至る最初の発想なんですよ。
―― ということは40周年だからソロをつくろうというのではなくて、コロナ禍で活動停止を余儀なくされたときにコンポーザーとしての自分自身にあらためて向き合おうとしたことがきっかけだったんですね。
時間がたっぷりあったから、こんな曲もやってみようかな、あんな曲もやってみようかな、というところで曲をつくり始めたんだよね。SAでやるにはちょっとテイストが違うなあ、と思える曲も、あえてつくった。いつもガレージバンドというアプリでデモテープをつくるんだけど、時間は腐るほどあったから、徹底的につくろうと思って。どこでどうリリースするとかはどうでもよかった。言葉とかメロディをどこまでつくれるのか、というのが発想のスタートだったからね。そのときに 15〜16曲はつくった。
―― 太成さんは出来上がった曲に対してどう評価しましたか?
俺、いいのつくるなあって(笑)。
―― はははははは。
なかなかやるねえって思ったのは正直な感想だね(笑)。
―― 作曲の過程で、あえてパンクというイメージから離れてつくろうとしたのか、それとも自然にこういった曲が出てきたのか、どっちなんでしょうか?
あえてパンクから離れた曲をつくろうとは思ったね。なぜかというと、パンクな曲だったら、それはSAでやればいいから。パンクとかロックンロールはね。普段、曲をつくるときにでも、棲み分けているところがあってね。すげえいいメロディの曲ができたなあ、と思っても、これはちょっとSAとはテイストが違うなあ、という曲はSAでは出さないんだよね。ボツにしちゃう。「これはSAでやるにはメロウすぎるなあ」とか「言葉が乗らないなあ」とかね。今までもSAでイメージできない曲が何曲かあってね、それはもうストックするしかなかった。そういう曲も、このソロアルバムに収録したところはあるかな。
■ 「なんちゃって歌謡ロック」にはしたくなかった
―― 今作の6曲を一言でいうならば、「歌謡ロック」というふうになると思うのですが、太成さんとしてはどういうテーマで曲をつくったんですか。
とくに今回のリード曲になっている「あふれ出す涙」に対して「歌謡曲っぽいね」っていわれるんだけど、たしかに「また逢う日まで」(尾崎紀世彦/1971年発表)であったりとか、「あの鐘を鳴らすのはあなた」(和田アキ子/1972年発表)とか、ああいうテイストがあるにはあるんだけど、自分の意識としては、もっとソウルな感じなんだよね。ラッパ(管楽器)の感じとかも含めてね。
―― なるほど。
ソウルであったりとかフリーソウルの要素を日本に取り入れてきたのが、70年代の歌謡曲であったり、それをやったのが筒美京平や70年代のアレンジャーであって、そういうものを今回のアルバムではサンプリングしているんだよね。だから、歌謡曲をつくりましたっていう気持ちはこれっぽっちもなくて、まあ、歌謡曲のテイストとか匂いとかはあるかもしれないけど、当時のフォークにも近いんじゃないかと思ったりもしてるよね。岡林信康とか上條恒彦とかね。ああいうテイストだよね。みんなでシンガロングするみたいな感じだよね。
―― あと、萩原健一さんのような役者さんが真剣にロックに取り組んでいたことがあって、そのテイストも多分にあるなあ、と思いました。
ああいう世界も好きだね。ショーケン(萩原健一)も(松田)優作さんも好きだし、もっと言えば、歌手だけど役者もやっていたジュリー(沢田研二)も好きだし。水谷豊でもいいんだけど、ああいうイキでイナセで孤独でチンピラみたいな人たちが真面目に歌うテイストが好きなんだよね。『傷だらけの天使』(萩原健一主演のテレビドラマ/1974〜75年)なんて大好きだからね。もっと言うとアメリカン・ニューシネマ(※「ニュー・ハリウッド」と呼ばれたリアリズムの視点を持つ70年代のアメリカ映画)とかも入ってきちゃうよね。アル・パチーノとかダスティン・ホフマンとかね。ロバート・デ・ニーロとかジーン・ハックマンとか。そこなんですよ、やっぱり。「そういう世界観を出したいなあ」というのがあった。そういうテイストはSAでも何回か曲に落とし込んだことがあるんだけどね。
―― そうなんですね。
メンバーも年代が近いから「わかるなあ、その気持ち」ってなるんだけど、そういう曲はね、やっぱりソロじゃないと表現できないんだよ。バンドじゃないんだよ。それにSAで歌う曲はメンバー全員の言葉じゃないといけないから。SAの歌はNAOKIやKENやANNYの気持ちを代弁していなきゃいけない。だけど個人的な気持ちの部分を歌いたいこともあるわけで、それをこのアルバムで出したような気がするんだけど、ただ、それがパロディになっちゃいけないんだよね。
―― というと?
「なんちゃって歌謡ロックをやりました」なんてことにはしたくなかった。70年代の歌謡曲のようなことをやろうとすると、どうしてもパロディになることがある。そうすると、途端にダサくなるんだよ。だからやるんだったら圧倒的にやらないと駄目だというのはあった。
―― 今作は内容もそうだけど、ビジュアルからフォントからファッションから振り切ってますからね。
徹底的にやるというかさ、このフォントでこのジャケットでしょ。「そこまでやろうぜ!」っていう気持ちはあったかな。
―― クリエイティブに隙がないですよね。
そもそもロックバンドのボーカリストはソロなんかつくっちゃいけないと思ってたんだよ。ちゃんとバンドという屋号があって、ボーカリストはその看板を背負っているわけだからね。それに、どうしてもボーカリストがソロをつくるときって、バンドのイメージを崩しちゃいけないっていう気持ちがあると思うんだよ。それじゃ意味がないと思っていた。それを壊せるんだったら、ソロをやってもいいし、バンドのテイストが入った曲をソロでやるんだったら、それはバンドでやればいい、「SAでやればいいじゃん」というのがあった。今回は徹底的に壊せたと思っている。これをつくって思ったことは、ボーカリストのソロアルバムはバンドと地続きであっては駄目だということだね。バンドとソロという交わらない2本の線路がないと駄目だと思う。だからSAも絶対におろそかにしてはいけないんだよ。変な話、いまはSAに対する情熱が上がってきてる。
―― ソロアルバムを作ったことによってSAへの熱が上がってきた?
バンドでは表現できない違うものを徹底的にやるという実験と挑戦と40周年が一緒くたになって、これができたんだよね。で、これを作ったことで自分のなかで決着がついたんだよ。以前はこのソロのテイストをなんとかしてSAにねじ込んで、SAっぽくしてもいいんじゃないか、とも考えていたんだけど、「この曲はソロ」とスパッと割り切ったときに、「SAで何をやればいいのか」も自ずと見えてきた。ソロをつくったことで、SAを俯瞰できるようになったんだよ。ここ何年かは「SAはもっと違うテイストの曲でやられるんじゃないか?」と、もがくこともあったけど、「SAっぽい曲とは何か」が見えてきたんだよね。
―― ソロというアウトプットがあれば、できた曲も無駄にならないですしね。
そうそう(笑)。「この曲はソロで出せばいいじゃん」って割り切れるからね。だから、すごくね、曲づくりが楽になったし、スッキリした。
■ライブのことなんか考えなくていい。この作品のことを考えようと思った
―― サウンド的にも70年代の音楽にアレンジに近づけようという意図が見えてきます。
今回は共同プロデュースを怒髪天の上原子友康くんにお願いして、2人でプロデュースをした。2人で共有していたのは、あの頃の音を目指すのなら「ちょっとだけテイストを入れました」というのではなくて「徹底的にいこう」ということだよね。「ライブのことなんか考えなくていい。この作品のことを考えようよ」って。ドラムの音からベースのフレーズから、上にかぶせているいろんな楽器に関しても、あの頃のあの感じっていうのを突き詰めたんだよ。とはいえ、デモテープが完璧にできあがっていたから、友康くんは「もうこのままでいいじゃん」という感じにはなっていたんだけどね。
―― すでにガレージバンドのデモの段階で、このアレンジができていたんですか?
デモテープと出来上がったアルバのアレンジはほぼ一緒。友康くんもプロデューサーとギタリストで参加する以上、自分の色を出すのが普通だと思うんだよね。ところが友康くんはデモテープのまんまギターを弾いてくれたんだよね。「友康くん、何か自分でアレンジしないの?」って訊いたんだけど「このフレーズがいいから、このまんまいくよ」って。そうやっていってくれたのがね、嬉しかったんだよね。俺、ミュージシャンから褒められたことないからさ(笑)。
―― 太成さんがガレージバンドを使ってつくったデモテープと完成した作品がほとんど同じということは完全なるソロアルバムということになりますね。
そう。完全なるソロ。それをやらないと駄目だな、と思った。
―― このアレンジまで太成さんがつくったとは驚きですね。才能ありますね(笑)。
これね、見つけちゃったよ。才能あるわ、俺(笑)。自画自賛の洪水だもん(笑)。だからどこまでやれるか知りたかったんだよね。
―― 職業作曲家としてもアレンジャーとしてもいけるんじゃないですか?
なんだったら、このアルバムに入っている曲を誰か歌ってくれてもいいんだよ。
―― レコーディングにはいろんなミュージシャンが参加しているんですが、これはどういう基準で選んだんですか?
まずは友康くんというギタリストを選んだんだけど、これはもうね、23年間ずっとSAでNAOKIとやってきたから、ソロは、テイストの違う人とやってみたかった。ジャカジャーンって弾くのではない人というのかな。細かいギターを弾ける人というか。一番親しくて話も合うし、年代的にも合うとなると、友康くんかな、と思ったんだよね。ドラムは(SAの)ANNYでいこうと思ってた。ベースは(亜無亜危異の)寺岡(信芳)さんがいいんじゃないか、という話になって。それから(フラワーカンパニーズの)グレートマエカワくんとは昔から一緒にやりたいと思ってたので、お願いして。ベースはね、指弾きのベーシストとやりたかったんだよ。SAもBAD MESSIAHのときも、ずーっとピック弾きのベーシストとばかりやってたからね。「指弾きの人と音をつくってみたいなあ」というのが昔からあったんだよ。あとはパンクだけじゃなくてソウルとかファンクとか、そういうものが入っている人とやってみたいと思っていたんだよね。実際やってみて、マエカワくんとか寺岡さんは本当によかったよね。やっぱり指弾きはグルーヴが全然違う。ノリが横になるというかね。1曲だけ(SAの)KENが弾いている曲があるんだけど、その曲(「流星、飛んでゆけ!」)はちょっと80'sとか90年代頭のマンチェスターっぽい感じもあったので「ピック弾きのネモケン(KEN)でひとつヨロシク!」って感じでお願いした。
―― SAからはNAOKIさんだけが参加していないんですね。
だからちょっとだけヘソを曲げるという(笑)。だけどね、どこかでNAOKIちゃんとは線を引きたかったというか。NAOKIはSAの盟友だから、NAOKIとはSAでやろうよっていうね。彼が弾いて俺が歌うと、どうしてもSAになっちゃうから。だからそれは避けようと思った。
■ ソロアルバムをつくることで、SAを俯瞰できた
―― 今までの話じゃないですけど、SAではやれないような曲が6曲揃ったわけですが、とくに「逃げの酒」という曲なんかは太成さんのお兄さんのことを歌った曲で、これなんかはSAでは歌えないですよね。
歌えないからね。この曲に関しては、パーソナルでナーバスな内容だから、取材に来た人が、みんな腫れ物に触るようにして訊いてくるんだけど、気にしてもらえなくていいんですよ。これはうちの兄貴が死んじゃった歌ではあるんだけど、「僕はこんなに悲しいんですよ、お涙ください」っていっているわけじゃないから。僕の通り名は「SAのTAISEI」なんだけど「馬渕太成」という馬渕姓を全面に押し出したかっただけだから。それは、親に対しても何もやってこれなかったから、親孝行という意味もあるし、兄貴に対しても「しょーもない死に方をしたけど、お前の歌を歌ってやったぞ」っていうくらいの気持ちなんだよね。
―― だから本当に世間的には「SAのTAISEI」であったりとか、パンクのカリスマだったり、パンクのレジェンドだったりするわけで、こうやって自分をさらけ出すことで、パブリックイメージが覆るのはどうなのかなあ、という葛藤も少しはあったのかと思いましたけど、「逃げの酒」もそうですけど、そういうものは……
ないんですよ。全然、ないんです。
―― ないんですよね。そこがこのアルバムの潔さなんですよね。
変な話、日銭を稼ぐためにソロをつくったわけじゃないし、僕の証明なんだよね。僕が生きた証明。そういう証明書をつくってみたかったというかね。それでね、アルバムタイトルの「新光」ってね、僕の親父が岐阜県大垣で「フードセンター新光」って店をやってたんだよ。
―― え、それでこのアルバムタイトルなんですか!?
僕が子供の頃は、大垣では「新光の息子さん」っていわれてたから(笑)。
―― 1stソロアルバムのタイトルが「新しい光」って見事にハマっています(笑)。
そう! ぴったりだなと思って。よくまあこんな店の名前をつけたなと思ってね。
―― ネーミングのセンスがあるのかもしれませんね(笑)。
僕の名前が太成じゃないですか。あの時代の岐阜県大垣の田舎に「太成」なんて名前の子供はいないんだよ。完全にキラキラネームだもん(笑)。恥ずかしかったから(笑)。「もっと普通の名前にしてよ」って思ってた。店の名前も「新光」だし。今となっては好きな名前だけどね。
―― ソロというコンセプトを徹底したから、このアルバムはブレてないんですよね。
ブレてない。もっと言うと、SAもブレなくなった。
―― というと?
2024年の10月に「青空の下のスケアクロウ」という曲をSAでリリースしたんだけど、NAOKIにつくってもらったんですよ。「今回はNAOKIちゃんがつくってくれ」と。「腹をくくっていい曲をつくってくれ」と発破をかけたんですよ。「1曲でいいから」といったんだけど、NAOKIは何曲もつくってきて。その度にボツにしたんだけど、最後、「青空の下のスケアクロウ」ができたんだよ。「もっと頑張れるはずなのに」と俺は思ったけど、「あとは俺ら4人が演奏することで、いい曲にするぞ」っていう感じで、本当にバンドっぽいことをやったんだよね。俺がデモテープを持っていって「はい、これをやって」というやり方を覆したかった。ソロアルバムをつくることで、SAを俯瞰できたことで、それがやれたんだよ。
―― ソロのおかげで、SAを違う視座で見ることができるようになったわけですね。
SAで『hopes』(2023年発表)ってつくったよね。あの6曲入りのアルバムが置き土産だと思っていた。SAは『hopes』で終わりっていうくらいの気持ちでいたんだよね。自分のなかで「最高傑作をつくれたなあ」と思えたことで、どこかで燃え尽きたんだよ。その次に、このソロアルバムの制作に入ったから、普通だったら「俺、ソロでいくよ」っていう気持ちになってもおかしくはないんだけど、そういう気持ちにはならなかった。「『hopes』をつくれたんだから、もう一回SAですごいアルバムをつくりたい」という気持ちになったんだよね。
―― ソロをつくってSAに火がついたというのは興味深いですね。
NAOKIちゃんも今年60歳だし「あと何年、飛んだり跳ねたり声を枯らしたりできるのかなあ」ということを考えるんだけど、SAって守っちゃ駄目なんだよね。「守るバンド」になったら終わるんだなと思ったな。いつもMAXで振り切っていないと、客も納得しないしね。新しいことをどんどんやっていかないと駄目なんだよね。最初はOiパンクとかジャパニーズ・パンクとかを引き受けながらやっていて、途中でいろんな人から批判を受けながらもいろんな音楽をやってきて、ここまで来たし、これからもいくんだろうなあと、いまは思っている。とくにNAOKIちゃんはいい意味でベタな感じの曲をつくるのがうまいからね。
―― 可能性はある、と。
俺が書いたみたいな曲をつくろうとするときもあるんだけど、そうじゃなくていいんだよね。NAOKIちゃんは90年代のJ-ROCKみたいな感じの曲をつくるのがうまいし、技術もあるし、知識もある。俺は技術も知識もないけど、センスはあると思ってるから。そこで合わさっていい曲になるわけだからね。
―― ソロアルバムをつくった影響がいろんなところに広がっているんですね。
いや、ほんとに。この『新光 -SHINKOU-』をつくって、自分の立ち位置を見つめ直せたのはデカかった。
―― ライブは2ヵ所でやるんですね。
なにせ初めてのことなので、お試しで名古屋と東京でやって、それでうまくいくようだったら、大阪や仙台とかでもやってもいいかなあ、とは思ってるんだけど、いかんせん、メンバーがバンドを抱えている人ばかりだから、スケジュールの調整がなかなか大変なんだよね。レコーディングで参加してもらった(ソウル・フラワー・ユニオン)の奥野(真哉)くんなんかツアーは無理だからね、スケジュールがいっぱいで。
―― 今回のツアーメンバーはどうなるんですか?
ギターが友康くんでベースが寺岡さん、ドラムはANNYでキーボードは久慈(洋子)さん。ただ6曲しかないから、その他はカバーとかやろうかとは思ってる。甲斐バンドとかジュリーとか。その辺を今ちょっと考えてる。あとはBAD MESSIAHのカバーも。BAD MESSIAHって、俺のなかで決着がついてないんだよね。
―― 個人的にはBAD MESSIAHは別でやってほしいですけどね。
BAD MESSIAHをずっと取材してきた人の意見だよね(笑)。やっぱりJun(Gray)ちゃんとじゃないと駄目か。
―― BAD MESSIAHはBAD MESSIAHとして決着をつけてほしいですね。
そうだよな。もう何年か前だけど、Junちゃんと佐野(俊樹)と飲んで、やれる機会があったらやろうぜっていう話は一回しているんだよね。Junちゃんは現役でやってるし、佐野もギターを弾かせたら、まだ全然、弾けたし。
―― グランジとかオルタナにもつながる要素があるし、今やってもかっこいいと思いますよ。
今っぽいよね。あのとき、若すぎて、なんだかわかんなかったんだよね。まあ、なんかあったらやってみたいというのはあるよね。本当にね、変な感じで解散しちゃったから。
―― BAD MESSIAHをやれたら、また違った視点でSAを見られるようになるような気がします。
ちょっとやってみようかな(笑)。いいかもな。
© 2025 DONUT
RELEASE INFORMATION
1st Solo Album『新光 -SHINKOU-』
2025年3月5日リリース
収録曲:01. くちびるに歌を乗せて/
02. BRIGHT SIDE OF LIFE/
03. あふれ出す涙/
04. 流星、飛んでゆけ!/
05. 逃げの酒/
06. 華やぐ街はブギーな気分
【購入方法】
通常版: https://virginmusic.lnk.to/SHINKOU
豪華版:https://diversified.base.shop/
配信:https://virginmusic.lnk.to/Pre_SHINKOU
LIVE INFORMATION
『新光 -SHINKOU-』リリースツアー
2025年
4月27日(日) 愛知・名古屋 得三
OPEN 16:00 / START 17:00
5月9日(金) 東京・荻窪TOP BEAT CLUB
OPEN 18:45 / START 19:15
BAND:馬渕太成 & TACTIX
MEMBER:
Gt. 上原⼦友康 (怒髪天)/
Ba. 寺岡信芳 (亜無亜危異)/
Dr. 林久悦 (SA)/
Key. 久慈洋子
※ライブの日程や時間は変更・追加になることがあります。必ず公式サイトやSNSでご確認ください。
公式サイト:https://taiseimabuchi.com/